学校の建設

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(昭和初期の新川小学校   新川尋常小学校卒業アルバムより引用)

 

 

宇部市に古くからある学校は、地域の人々の寄付に支えられて作られた。
明治の末、炭鉱業の発展に伴い人口が急増した宇部村は、新たな小学校を必要としており、
村政の中でも急がなければならない重要課題であった。

財政は乏しく、資金繰りに頭を悩ませていた村長に、ある日、友人の渡邊祐策が話しかけた。

「いよいよ新川小学校の敷地選定に取りかかったそうだが、良い場所があるのだが」

「そりゃ、いったいどこか?」

「電機会社の西側じゃ」

「お!あそこならええな… 村会の承諾を得にゃなるまいが、お金の方が…」

「お金はなくともええ、わしが引き受けとこう」

こうして、祐策の助力もあり、学校の建設が進められた。

祐策が言った『お金はなくともええ、わしが引き受けとこう』という言葉には全く私心がなかった。
祐策は学校の建物をつくるだけではなく、教育者と共に内容を良くしていくことにも積極的に関わっていた。
とかく学校任せになりがちな教育現場に、地域と保護者が関わることを主導してきた一人である。

さて、エピソードの中に登場した、新川小学校が建設された電機会社の西側とはどこなのだろうか。
それは、宇部市の中心市街地の一角、現在ANAクラウンプラザホテル(宇部興産ビル)が建っている場所である。
新川小学校が宇部村に誕生した後、祐策は「私立済美女学校」と「博愛幼稚園」を隣接した場所に誘致している。

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愛娘の死と済美女学校

大正二年三月五日、卒業を目前にひかえた十七歳の少女が病に倒れ、息を引き取った。彼女は親元を離れ、徳山(現周南市)にある女学校の寄宿舎で学生生活を送っていた。少女の名は久子、死の病となったのは当事流行していた伝染病チフスだった。

久子は優しい父・祐策が大好きだった。祐策もまた久子をかわいがった。久子がお茶を習いたいというので、忙しい仕事の合間をぬって一緒に茶道を習った。女学校を卒業する頃には、方々から縁談が申し込まれた。祐策は娘の将来を楽しみにしていた。そんな矢先の悲劇だった。

この春には、ようやく村に誘致した『私立済美女学校』が開校することになっていた。

愛する娘を失った祐策は、

「仕方のない運命だったが、これも我が宇部に女子教育の設備がないからだ。久子もわしの手元で学校に通わせていたら…
これは我が子だけの問題ではない。宇部に住む将来の子供たちのために…」

祐策は女学校誘致・建設のみならず、さらに運営費用にと、久子の嫁入りのために蓄えていたお金を全額寄付したのだった。

こうして、宇部村に初めての女学校、私立済美女学校が誕生した。

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