2017.9.11 Mon
学び舎と夢
大正九年、村立宇部中学校(現在の県立宇部高等学校)の創立を祝う席で、渡邊祐策は言った。
「教育は永遠の大事業である」
祐策の青春時代は、全く逆境の連続だった。
明治十一年、一家を支えてきた父恭輔が突然病気で亡くなった。享年四十七
十三歳の祐策は学校をやめて、家業を継がなければならなくなったが、家族や後見人と相談の上、しばらくの間、岩国の沢瀉塾(たくしゃじゅく)へ入門することになった。沢瀉塾とは、「西の松陰、東の沢瀉」と言われた岩国の志士、東沢瀉(ひがしたくしゃ)の私塾である。ところが翌年、許嫁クミの父が亡くなったため、祐策は塾を辞めて生家へ戻り、クミと同居して家業の農業に従事した。
一方、学業をあきらめ切れず、近所の幼馴染のように東京へ出て学ぶことを望んだが、後見人の賛成が得られなかった。
「ここには、親がいないから…」
と言われた。
明治十五年春、十七歳で祐策はクミと結婚し、翌年には長男一男が誕生した。
この頃、祐策には小学校の教師になりたいというささやかな夢があった。あるとき、家族の留守を見計らい、何も告げず山口へ向かった。教師の免状をとるために、師範学校へ入学しようとしたのである。祐策の行方がわからなくなったので、家族は大騒ぎとなった。結局、後見人が山口まで説得に訪れて、家に連れ戻された。教師になる夢も断たれた。
気持ちを察した友人は、戸長役場の用掛(村役場の職員)になってはどうかと祐策に薦めた。戸長役場では、将来に備えて、宇部の有能な若者を採用していた。友人と先輩から強く推され、祐策は用掛になった。
宇部市寺の前町にある県立宇部高等学校(旧制宇部中学校)の正門を入った左の片隅に小さな記念碑がある。ここに宇部村の役場があった。